ここらオタクイズ vol.07「斐太歴史の里って知ってる?」答え

これであなたもここらの達人! ここらオタクイズ

ここら(上越・柏崎地域)の歴史、文化、自然を知って、もっとここらを好きになっちゃおう!

 

vol.07「斐太歴史の里って知ってる?」の答え

妙高市宮内・雪森にある希少な遺跡群のクイズです。
出題者:斐太歴史の里

Q1.域内には「斐太遺跡」「観音平・天神堂古墳群」「鮫ヶ尾城跡」と、3つの時代が異なる遺跡があります。その時代とは?
①縄文・古墳・戦国 ②弥生・古墳・戦国 ③弥生・平安・戦国

【答②】(妙高市HPより)

斐太遺跡…弥生時代後期後半(3世紀、今から約1800年前)に存在した集落遺跡です。100,000平方メートルを超える低丘陵上に200軒を上回る竪穴建物跡を有する大規模な遺跡であり、既知の弥生時代後期の集落遺跡としては東北日本最大規模を誇ります。
観音平・天神堂古墳群…斐太遺跡を挟んで北の観音平地区(宮内、青田)、南の天神堂地区(乙吉、籠町)に分かれ、両地区合わせて170基以上の古墳が確認され、指定面積17万平方メートルの北陸最大規模の古墳群として昭和53年に国の史跡に指定されました。
今まで古墳時代後期(6~7世紀)の群集墳として考えられてきましたが、平成11年度の調査で、観音平地区の最高所に古墳時代前期(3世紀頃)の前方後円墳が2基発見され、県内最古級の前方後円墳として、注目を集めています。
鮫ヶ尾城…16世紀の後半に春日山城の前衛として普請された頸城地方最大の支城といわれています。越後を二分する大戦乱に発展した御館の乱の終焉の地でもあり、同盟の証として越後入りし、謙信の後継者と目されながらも最後は近臣の謀反によって非業の死を遂げた三郎景虎が自刃した場所としても知られています。御館の乱は、北日本屈指の大国であった越後国内のみならず、日本列島の勢力構図をも一変させうる戦乱でした。こうした大乱の由緒地であり、その存在を示す良好な歴史資料として高く評価できるものです。

Q2.観音平古墳では57基の古墳が確認されています。そのほとんどが円墳ですが前方後円墳も確認されています。その数はいくつでしょうか?
①1基  ②2基  ③3基

【答②】観音平古墳には1基ごとに番号が付けられていますが2号墳だけ有りません。以前は1号墳が円墳、2号墳が方墳とされていましたが、調査で1号墳と2号墳は一つの前方後円墳という事が判りそれで2号墳は無くなりました。

Q3.春日山城の支城である鮫ヶ尾城。上杉謙信の後継争いに敗れ、ここで自害した武将は誰?
①上杉景勝 ②上杉三郎景虎 ③直江信綱

【答②】(以下Wikipediaより転載)

御館の乱は、上杉謙信の二人の養子・上杉景勝と上杉三郎景虎が、上杉謙信亡き後の後継者争いをした戦です。謙信死後に勃発した御館の乱に於いて、城主である堀江宗親上杉景虎側に付き、御館落城後に関東への唯一の逃げ道(景虎は北条氏康の子ないし北条氏縁者との説がある)となったこの城を経由して逃がすべく、景虎を城に引き入れる。 しかしながら宗親は安田顕元の寝返り工作に応じ、二の丸に火を放ち当人は退去。 その後、総攻撃を受けた鮫ヶ尾城は落城、景虎は妻子共々自刃して果てた。
鮫ヶ尾城城代は堀江宗親で住まいは乙吉勝福寺近く立ノ内に有ったとされています。この辺りでは古くから「家を建てると祟りがある」とされ現在も畑地として利用されています。

Q4.鮫ヶ尾城跡はH29年に続日本100名城の1つに選定されました。
その時新潟県内で3城が選ばれましたが高田城ともう1つはどこ?
①村上城  ②新発田城  ③栃尾城

【答①】日本100名城、続日本100名城の選定の基準は以下の3点です。
(1)優れた文化財・史跡であること
(2)著名な歴史の舞台であること
(3)時代・地域の代表であること
鮫ヶ尾城はその選定基準に当てはまったお城です。

Q5.上杉三郎景虎の側室・妙徳院の供養塔が妙高市内に有りますがどこにあるでしょう?
①関山宝蔵院 ②勝福寺 ③摩尼王寺

【答①】

斐太歴史の里(斐太県民休養地)

妙高市宮内地内
☎ 0255-72-0697